space彩
07 « 2017 / 08 » 09
 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31.
2014/07/15 Tue  23:59:04» E d i t

上杉家は陸奥会津120万石(会津藩)から出羽米沢(米沢藩)30万石に減封となった後も、家臣はそのまま抱え続けたために、人件費だけでも藩財政には深刻な負担となったという。
それでも直江兼続は領民をしぼることを排し、むしろ領民を育て暮らしむきをよくすること、領土の潜在的な富を増やす経営策で実質50万石を目指した。
兼続の死後19年経ってからの検地で52万石近くになり目標は達成されるのだが、この時まで年貢率を上げずに過ごせたのは、上下問わず元来の暮らしが質素だったことに加え、軍資金の蓄えもあったために真実の貧しさからはまだ少し遠かったと書かれている。
その後、嗣子のいない第3代藩主上杉綱勝が急死し、なんとか後嗣を立てて存続はするものの15万石に減封となり、そこから米沢藩の困窮が酷くなっていく。

参勤交代や幕府から命じられる普請は、どこの藩でも財政へのダメージは大きかったろうけれども、米沢藩はなんにしても家臣の人数が他の藩に比べて多かったために窮乏化は激しかったようだ。
17歳で藩主となった治憲(後の鷹山)は率先して節約を実行したり、学問に力を入れたりと様々な藩改革を行っていく。
なんとかして藩の財政を立て直そうと、藩主治憲の下、竹俣当綱(たけのまたまさつな)は漆・桑・楮(こうぞ)各百万本の植樹計画を立てるのだが、思ったように計画は進まない。
その上米の凶作が続き、天明の大飢餓では新潟や酒田から高騰した米を買って領民に分け与え、結果一人の死者も出さずに済むのだが、それにより藩財政は大きな打撃を受けることになる。
当綱や莅戸善政(のぞきよしまさ)が退いた後の財政再建失敗や士風退廃などにより、益々藩は厳しい状況に陥るが、鷹山は莅戸善政の復職をさせ、後世に寛三の改革と呼ばれた改革に着手することになる。

鷹山が藩改革を行って、米沢藩がいかに立ち直っていったのかが書かれている本だと思い込んで読み始めたので、一向に光が見えて来ないまま残りページが少なくなってようやくそういう話ではなかったのだと悟った。
著者は本当は後60枚の原稿で擱筆するつもりだったが、体調不良で末尾6枚分しか書けなかったのだという。
そのせいかいよいよそこから好転してくであろう莅戸善政復職後の話は、さらりと書かれている印象だ。

最後の鷹山の描写は文政5年とあるので、調べたら鷹山が逝去した年のことだった。
次の年に藩の借財は完済されるのだから、やってきたことが結実して過去を振り返っているシーンということになる。
当綱から漆の実が藩の窮乏を救うだろうという話を聞かされた時は、まだ漆の実がどういうものかも知らず、熟すれば枝先で成長し、いよいよ熟れれば木木の実が触れ合って枝頭でからからと音を立てるだろう、そして秋の山野はその音で満たされるだろうと心躍ったことを思い出す。
漆の実が実はそうではなかったという驚きも含め、若かった自分を振り返っている。
教育一つをとってもその成果はすぐに出るものではないし、信じて耐えることの大変さ、またそこに人を導いていくのもとんでもなく困難なことだったに違いない。
最後のこの鷹山の描写で、ようやくほっとして本を閉じることができた。

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://spaceaya.blog39.fc2.com/tb.php/2179-8321ccb1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック