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2015/07/04 Sat  21:16:25» E d i t
織田氏、豊臣政権と徳川氏について。
興味深かったのは書札礼によってその関係を見るというもの。

【書止文言(かきとめもんごん)】
恐惶謹言(きょうこうきんげん)…相手が目上の場合
恐々謹言(きょうきょうきんげん)…相手が対等の場合
謹言…相手が目下の場合

【日付と宛名】


【殿】(様は江戸時代の終わり頃)
楷書に近い程相手を上に見ている。
ひらがなは一番下。

【上所(あげどころ)】
進上…目上
謹上…対等

【脇付】

人々御中…目上
御宿中…対等から上
御報…対等

信長から家康への書状は、天正元年までは対等で、天正5年以降のものは目下に対するもの。
家康から信長への天正2、3年の書状では「岐阜殿」とあるが、居住地で宛名を書くのは相手を敬う場合。
天正9年には偉い人に宛てた場合に直接出さずに家人に送る「披露状」が見られる。
これらの史料から信長と家康の関係は天正元年を境に変わったと見られるが、この頃に信長が足利義昭を京都から追放している。
これにより、この時代では唯一の天下人(今の言葉だが)になった。
家康は戦国大名から織田(一門)大名という立場に変わったといえる。

そして、豊臣政権下の話へ。
秀吉の「豊臣」は姓なので、本来は羽柴豊臣秀吉。
家康の位官に関する文書は全て江戸時代に書かれているが、実際は「豊臣」であったろうと推測される。

秀吉の書札礼を見ると、家康へは「殿」、他は「とのへ」となっており、相対的には目下に見ているが家康は特別。
家康から秀吉へは披露状の形をとっている。

家康は朝鮮出兵の頃の名護屋在陣中にグループ形成を行っていき、この頃手紙をやりとりしていた大名は関ヶ原では味方が多い。
名護屋では徳川家の陣は湾入り口対岸にあるが、これについては
(1)家康の力を分断している、家康を警戒している。
(2)最も重要な位置なので重視しており、警戒感はない。
と評価が分かれるそうだが、秀吉が元気な頃は家康は秀吉に臣従し豊臣の枠の中で動いていて、秀吉からもそれほど警戒している感じがしない。

家康は段々と政権の中枢に入っていく。
文禄4年(1595年)に関白・秀次が切腹した際、秀吉は諸大名の動揺を収めるために家康と毛利輝元を政権の中枢に据えた。
秀吉没後の挑戦からの引き上げにも中心となった。
関ヶ原以後、家康は征夷大将軍となり、豊臣秀頼を凌駕しようとする。

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